Ritz

普段は真面目で優しいFラン大学生

一日1000字を目標に日記を書いていく

f:id:innomono8:20201209011111j:plain 書くことは自分を表現するうえでとても手っ取り早い方法だと思ったのでなんとなく書いていこうと思う。といってもパソコンでキーボードを打つだけなので表現のだいぶ狭くなる。 何かを半端に作り出した後、もう一度見直すと恥ずかしくなる気持ちは未だに慣れない。自分が過去に書いたことについてもそれはあてはまっている。これは自分が書いたものにもあてはまっていて、もし十年後の自分が読んだら何かはっとさせられるかもしれないが、一年後の自分が読むと恥ずかしい。この感覚は自分がまだ比較的若いから感じてしまうのか、年老いても付き合っていかないといけない類のものなのか。 それでも書いて置いて損はないと思う。自分の思い出になるし。友人や家族に見られたらめちゃくちゃ恥ずかしいけど。

美文を書く人にあこがれることがあったけど、そもそも美文なんて言葉を知らなかったし、知らなかったとしても作りだすことはできたかもしれないことを考えると自分のワードセンスには期待できない。 思い立ったら吉日とは言ったものの、三日坊主ですぐ飽きてしまう。この日記も長く続かない自信がある。自身に長く付き合ってきた自分ならわかる。ちょっとそれっぽいことを書きたかったので言葉が被って頭痛が痛いけど気にしない。 そもそも読点の付け方もまともにわかっていない。12種類もあるらしい。アホくさ。日本語の欠陥構造だと思う。 自分は日本語をしゃべれることに誇りをもっているけど、欠陥部分についてはもう少しどうにかならなかったものか。

何かを書く上でシンプルに書いてしまいたい自分とそれっぽい表現を一生懸命使って書きたい自分がいる。ただ自分には書く技量がないのでなるべくシンプルにしたいと思っているが、見栄を張りたい自分もいるのでどっちつかずになっている。

人生はあんまりにも長すぎる。今の自分は早く死にたいけど死にたくないという矛盾を抱えている。この感覚が老いていく中で死んでもOKと思えるようになるなんて到底想像がつかない。その上この長い人生でこれからずっと死を見送る側をずっと経験しなければならない。どうやったって悲しい気分になるし、もしかしたら友達はなるべく作らないほうが良いのかもしれない。自分が見送られる側にさっさとなるのもいいかも。見送る側になるのはどうやっても悲しいのにどうして人間は子供を産んでしまうのか。新たな生命の誕生は美しいことだけど愛の結晶であるその新たな生命はいずれ見送る側になることを強制されて、最後には見送られる側になる。子供はみんな幸せになるべきだけど、本当に子供を幸せにしたいならそもそも生まなければ良いのでは? この考えは良くないことだけどそう思ってしまう自分もいる。もしかしたら既に宗教になってるかも。